自分にはどうしようもない理由で、人生には嫌なことがたくさんおこります。それに対処していくことで成長していきますが、やっぱりうまくいかないこともあります。そんなとき、人生がやり直せたら良いですね。誰もあなたの知らない国で、今周りにいる人とは全然性格が違う人に囲まれ助けられて、平和で楽しい生活を作っていきたい…そんなとき、自分は英語が話せるはずだ!と自信をもっていればどうでしょうか。案外、人生をやり直すのは難しくないと思えてくるでしょう。死ぬ方がましだという状態から生き返るカギになる能力というのは、何よりも価値があるのではないでしょうか。
しかし、ここには裏口があります。新しい他の言葉を覚えるとしたらどうでしょうか?英語を覚える機会を利用して、赤ちゃんが言葉をひとつひとつ覚えていく過程のシミュレーションをするのです。大人たちが自分の分からない言葉をしゃべっているイメージ。その中から、自分の気に入ったパターンを見つけ出して、遊びで声を出していくイメージ。そのような中で、大人が言葉を教えたり、その言葉に関係する楽しいことを教えてくれるイメージ。このようなイメージをすると、脳はすっかり騙されて、初めて言葉を覚えるときの神経回路が発動し、自然に言葉が身についていくのです。これにより、幼少期を事実上やりなおすことができるのです。
言語には、一つ一つ固有の特徴があり、翻訳により表現できる内容は限られています。言葉の音やリズムを感じること、物事を言う順番、目の前で起きている事態のどこに注目すれば言葉になり、人に伝わるのか。そういったものが異なります。自分のイメージの力で作り出した仮想的な赤ちゃんは、言葉のかけ方、かかわり方の違いだけでなく、言語固有の特徴や歴史の違いを敏感に感じ取り、必ず今の自分とは異なった性格に育っていきます。この少し違った自分は、育て手である今の自分が必要としているものを持つように育っていくことでしょう。これは長い旅になりますが、人生を素晴らしいものにするためにぜひとも持っておきたいもののひとつです。
機械翻訳は完璧ではありませんが、一般的な用途では十分にすぐれているため、今必要と考えられている英語の能力の重要性は相対的に下落すると考えられます。そうであるのに、英語の勉強が必要とされているのは、単なる学校教育制度の惰性、つまり前までそうだったという状態から変化についていけていないだけだとみなすこともできます。しかしながら、英語を十分に学んだ人が勉強が無駄になったと感じているかというと、まったくそうではありません。私が英語を勉強すべき理由として挙げたことは、機械翻訳が完璧であったとしてもなお通用する理由ばかりです。教育制度上、英語の勉強が避けられないのであれば、実用的な観点ではなく、人格形成的な観点から英語の勉強という機会を利用するのが好ましいと言えます。古代から現代にいたるまで、数えきれないほど多くの多言語話者が知的に活躍してきました。そのことだけからも、教養として外国語学習を体験することの普遍的な価値は十分であると考えられます。
さて、ここまで述べてきたのは、英語というよりは外国語を勉強すべき理由です。本当は、しっかり身につくのであれば、英語でなくてもよいはずです。もし、あなたが骨のある人間で、学校の英語の勉強を無視して、自分の選んだまったく違う言語の学習に全力を注ぎたいというのであれば、それは素晴らしいことです。自分で選んだ言語であれば、特に愛着がわき、学習効果も高いです。しかしながら、このような決意はあまり長く持たないことが多いです。英語の勉強は学校のサポートを得ることができ、学習の結果がただちに評価され周囲があなたの努力に応えてくれるため、当面の苦労が少ないです。さらに、学習教材も品質が高く自分に合ったものを選び放題であり、インターネットを利用して、莫大な情報と考え方へのアクセスという恩恵をすぐに受けることができます。さらに、英語とは別の言語を学習する場合、英語で書かれた教材が最も優れているということが多いです。このような理由で学習言語を選ぶのは妥協のような気がするかもしれませんが、外国語学習の初心者が学習を継続するには、英語が格別におすすめできるというのは事実です。